アレクサンドリア四重奏I:ジュスティーヌ

本とカレーをテーマにしている Instagram のカレー率が大きいため、本仲間と顔を合わせるたびに「最近、本読んでないの?」などと聞かれるのですがこの夏はひたすら『白鯨』を読むということをしていて、ただ今二巡目。ナボコフ・マラソンもゴールが見えて来て、今年の読書は量より質的な感じで非常に満足しております。が、面白い新刊も読みたいな。ちなみに今一番気になっているのは、 Colson Whitehead です。はい。


『白鯨』の傍ら、ふとこの夏読み直したのが本書、ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏I:ジュスティーヌ』。私の中で『アレクサンドリア四重奏』の一番の特徴は、アレクサンドリア感の欠如で、念のため(とか書くと地理とかすごく得意な人のようだけど実はそうではなくて、自分のための確認のためにも整理すると)アレクサンドリアはカイロに続くエジプト第二の都市で、かのアレクサンダー大王がオリエントの各地に建てたギリシャ風の都市第一号。もうこれだけで地中海の明るい日差しとか、スパイスの匂いを乗せた乾いた風とか、朽ちかけた神々の神殿とか、アレクサンドリアのアレクサンドリア感を出すためのプロップはいくらでもありそうなのに、ダレルの描くアレクサンドリアはなんだかぼんやりと曖昧で雨に濡れた磨りガラスに映った影のように覚束ない。が、それこそがこの本をこれ以上なく魅力的にしている要素なのだなと、『ジュスティーヌ』を再読して実感した。

ところで、普段あまり本を読まない人が『アレクサンドリア四重奏』を手に取らないであろう理由は一つだと思う。長い。単行本で三百ページぐらいある本を四巻読むのは結構なコミットメントなので、躊躇してしまう気持ちは非常に分かる。が、別に論文を書かなければならないとかじゃなければ、第一巻の『ジュスティーヌ』だけ読めばいいんじゃないかなと思う。(あと私みたいに、「あ、『アヴィニオン五重奏』ももちろん読みましたよ」とかさらっと言うことに満足を覚えるタイプの人間ね。)確かに、二巻、三巻、と読んでいけば、「これこういうことだったんだー」みたいなところはあるのだけど、別にミステリーではないのでそれはそんなに重要じゃないし、正直、三巻、四巻ぐらいになるとちょっとだらけている気もしてしまう。多分、四重奏という括りにしないで、『ジュスティーヌ』を一冊の作品として(更には別のタイトルをつけて)発表した方がダレルの評価もより高くなっていたんじゃないかなとか勝手なことを思ったり。で、何が言いたいかというと、『ジュスティーヌ』だけでも読んだ方がいい。絶対。

プロットだけを追うと、あまりにもメロドラマティックでほとんど陳腐に感じる人もいるかもしれない。貧乏なイギリス人教師の主人公「ぼく」は、病弱なキャバレーの踊り子、メリッサと貧しいながら幸せな生活を送っている。が、大金持ちの人妻ジュスティーヌと出会ったことにより、周りを巻き込んだ破滅的な愛に溺れて行く。ジュスティーヌの文学史指折りのフェム・ファタールっぷりは読んでいて楽しいし、倦怠と頽廃の底にある狂気じみたすっちゃかめっちゃかな楽観主義も第一次世界大戦後という時代ならではでグッとくる。売春までして「ぼく」を支えるメリッサの健気さもかわいいし、絶倫の大金持ちダカーポ、性病医でカバラの研究家のバルタザールなどの登場人物も堪らなく魅力的なのだけど、やはりこの作品の一番の魅力はダレルの書く文章。

個人的に愛して止まないのはここ。

アレクサンドリア中央駅、真夜中。死のように重い露。ぬめぬめと滑る舗道に響く車の騒音。黄いろくよどむ燐光。舞台の書割りめいた物憂い煉瓦建築の正面に、涙のように暗い通路。物かげに立つ警官。汚れた煉瓦の壁を背にして別れの接吻を。彼女(メリッサ)は一週間の旅行に出るのだが、僕はまだ眠りから覚めきらず、うろたえるまま、もう帰って来ないのかもしれないと思う。静かな強い接吻と明るい目がぼくの心を空ろにする。暗いプラットフォームから小銃の銃尾が触れ合う音と鋭いベンガル語が聞こえる。インドの分遺隊がカイロへ定期移動するのだ。列車が動きはじめ、暗闇を背にした窓の暗い人影がぼくの手を離す。そのときになってやっと、ぼくはメリッサがほんとうに発って行くのだと感じる。冷酷に拒まれたすべてのものを感じ取る。列車の長い列が銀いろの光のなかへ出て行くと、ぼくはふいに、ベッドで彼女が白い背を向けたときのあの長い脊椎を思い出す。「メリッサ」とぼくは呼びかける。しかに機関車の巨大な哄笑がすべての音を消し去ってしまう。

真夜中のアレクサンドリア駅の濡れた線路が、肺病持ちのやせっぽちなメリッサの背中から浮き上がった背骨と重なりあう、その光景とそれが暗示する別れの予感がひりひりするほど美しくて切ない。本書にはそんな超一級の情景描写がこれでもかと詰め込まれていて、できるものならすべて暗記して、自分の血と肉にしたくなる。

多分、この物語の正しい読み方は、ただただダレルの詩と幻想的な情景に浸ることなのかもしれない。(まあ、メロドラマも嫌いじゃないのだけど。)なので、本書にアレクサンドリア感が欠如しているのはものすごく大切な小説的なたくらみで、陳腐な観光ガイドのようでないからこそ、読了後に心に浮かび上がるアレクサンドリアは自分だけの特別な場所になっているはず。そして目を瞑ればいつだってそこにあるのに、決して訪れることはできないのだ。そう、あの懐かしい日々のように。

あとすごく関係ないけど、もう多分終わっている夫婦関係の相談をされた時に、『ジュスティーヌ』の一文をふと思い出した。

ここではぼくたちの肉体は、アフリカの砂漠から吹きつけてくる荒々しい乾いた風に痛めつけられている。ぼくらは愛の代わりに、もっと賢明な、しかしもっと残酷な心のやさしさというもので間に合わせねばならなくなったのだが、それは孤独を追い払うどころか強めるばかりだ。

「これ、読んでみたら?」とは残酷過ぎて言えなかったな。

そんな喪失をテーマとした物語は冷たい風の吹き始める秋の読書にもぴったりかもです。

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