『アッシャー家の崩壊/黄金虫』

ポーは謎だ。といっても、孤高の天才という単純なイメージからそう思うわけではない。あらゆる文学ジャンルに足跡を残す天才型でありながら、同時に、世間のニーズに眼鼻の利く職業人的文筆家(かつ編集者)でもあることが謎。さらにいえば、ロマン主義の系譜を引く作品を多く生み出し(しかもフランス象徴派に影響を与え)ながら、当人は霊感も詩神の恩寵もあてにしない徹底した合理主義者であるという二面性が謎なのだ。

ポーが自作の詩「大鴉」(本書収録)を題材にしてその創作過程を詳細に解説した詩論をものしていることはおそらく有名。その意図は「創作にあたって、いかなる点も偶然や直覚に帰せられないこと――この作品は数学の問題のような正確さと、厳格な因果関係をもって、一歩一歩その完成へと進んだことを明らかにする」ことにあるという(「詩作の哲理」谷崎精二訳、原題"The Philosophy of Composition"は「構成の原理」などとも訳される)。

それほど長くないこの文章は、枕にディケンズなどの散文作品の例示があり、総論としては小説も含んだ文芸作品全般を念頭に置いているらしい。では、たとえば「アッシャー家の崩壊」に同様の創作姿勢は見出せるか。

〈ゴシック〉なるものの世界観を跡付けた著作で高原英理は、怪奇小説の語り口の典型としてこの短篇の冒頭の描写を引用したうえで、その「語り口の一貫性」「めざす方向に反する要素の排除の徹底性」に注意を促している(『ゴシックハート』)。そのような叙述の目的は、もちろん怪奇の雰囲気を盛り上げることにある。また、引用文中に現れる「この場面にある一つ一つの事柄、いわば絵画の細部であるものを、もし並べ替えるように見たならば、それだけでも風景がたたえる物悲しさの総量を低減ないし消滅させられるのではないか」(訳は本書による)という部分は、「怪奇を語りつつ怪奇の語り方をも教える言葉」であるとも指摘される。

なるほどポーは、詩でも小説でもかなり緻密に作品を組み立てるタイプだとはいえそうだ。しかしながら、創作にまつわるポーの自己分析をどこまで真に受けていいのか迷うところでもある。実際、上記詩論は通して読むとかなり馬鹿馬鹿しい印象を受けるし、それはなにか詮索する価値のありそうな馬鹿馬鹿しさでもあるのだけど、それはともかく、常識的に考えて、数学的な厳密さと科学的な因果律だけから詩や小説は生まれない。真/偽あるいは妥当/不当のような基準で評価されるものではないのだから、まあ当たり前といえば当たり前だ。反対に、ノヴァーリスやヘルダーリンが言葉の効果や全体の構成に無頓着なまま詩作をなしたはずもない(ポーは「多くの作家――ことに詩人――は、一種の高雅な狂熱――恍惚たる直観――によって作品を書いたと思ってもらいたがる」などと当てこすっているが)。

ここで注目したいのが探偵小説「盗まれた手紙」(本書収録)だ。世界初の名探偵オーギュスト・デュパンが登場する三作の掉尾を飾るこの著名な作品で、警察はD大臣に盗まれた手紙を発見することに失敗し、そしてデュパンは成功する。失敗した警察の捜索手段こそ、まさに厳密で科学的なものだった。パリ警察の総監は(手紙を見つけられなかったのに)得意げにいう。「秘密の引き出しなんてものはあり得ないのだよ。(中略)どんなキャビネットでも一定の容積というものがあって――空間内におさまるはずの分量がある」。また、手紙を丸めて細工した家具に押し込んだのでは、という意見に対しては、「およそ家具と名の付くものの継ぎ目を、最高倍率の拡大鏡で調べつくした。いかなる工作の痕跡でも、あれば即座に検知しただろう」とやはり誇らしげ。このくだり、総監の口を借りてポーは、大臣宅の家捜しの徹底ぶりにかなり筆を費やしている。

無事手紙を取り戻したあと、デュパンは語り手にいう。警察が失敗したのは「敵の知性を見極められない、あるいは見極めようとしないからだ」と。その相手である大臣とは「数学者でもあり詩人でもある」という特殊な経歴の持ち主だった。もし大臣の心得が「数学だけだったら論理が進まなくて、総監に手もなくひねられていただろう」とデュパンは言い切り、「常識の通念とは正反対のように聞こえる」といぶかる語り手に向かってひとしきり数学(というより数学上の真理を現実にそのまま当てはめること)の弊害について論じる。ようは、ありていの常識にとらわれない詩人の資質を持った犯人が相手であれば、通常の科学捜査を粘り強くやりとおすだけでは太刀打ちできない、というわけだ。これはどういうことだろう。詩論中の言葉と矛盾しないか。

創作に向かう態度と小説上の筋書きとでは話が違う、ともいいきれない。「数学の問題のような正確さと、厳格な因果関係をもって」探偵小説を構築することはできない、できたとしても、それは誰も仰天させない、味気ない論文のようなものになってしまわないか、と、ぼくにはどうしてもそう想像されるからだ。デュパンの推理ははたして通常の意味で〈論理的〉なのだろうか。直観のようなものがどこかに入り込んでいないだろうか。

デュパンがデビューを飾る「モルグ街の殺人」、そこで披露される独特の〈分析〉概念に注目した笠井潔は、「分析的知性において詩的言語の美をコード化しうると考えたポオにおいて、奇妙な逆転が生じる」という(『探偵小説論序説』)。超越性への憧憬を否定したはずの知性が、それ自体、ポーを錬金術師や修道士に近づけるのだ。「近代の合理精神が否定する超能力やシンクロニシティの類を、あえて分析的知性なる『概念』において正当化しようと努める不条理性を、読者はポオの作品から読み取らなければならない」。そもそも「(物理的トリックと違って)心理的トリックは惰性化され構造化された人間的主観性を標的とする」のであるから、その的を正確に射抜くには、論理を超えたなにかが必要とされるはずだ。最初に引用した詩論にはこんな言葉もある。「その名にあたいするプロットとは、執筆に先き立ち、その結末まで丹念に工夫しておかねばならぬことは明白である」。だが、はたして「モルグ街の殺人」のあの魅力的な謎は、真相から逆算して導き出されたものなのだろうか。どうもそうとは思えない。

パリ警察も自分たちの領分でやれるだけのことはやったのだ、とデュパンは皮肉交じりにいう。「ああいう路線としては最善の方策だったろうし、念には念を入れて完遂したのでもある。もし手紙が捜査の範囲内に置かれていたなら、探索の目を逃れることはできなかったはずだ」。このセリフを聞いてふと思い出したのは、トマス・クーンのパラダイム理論だ。安定期の通常科学が精度を高めると、やがて無視できない誤差が生じ、危機の予感とともに科学革命がやってくる。既定の路線が破たんして互いに相容れない理論が乱立するこの時期の異常科学こそがパラダイムシフトをもたらす、というあの理論だ。いつもコツコツと積み上がっていくだけではない、ときには美しさや善さといった説明しがたい基準が作用することもある、そんな科学観を採用するなら、ポーの二面性の謎もいくらか和らぐのではないか。

トマス・クーンは通常科学をパズルにたとえた。探偵小説もパズルのようなものだと昔からよくいわれる。そして、後者の場合のみ貶める意図が含まれる。しかしよくよく考えると、パズルに似ているのは探偵小説全般ではない。それは〈できの悪い〉探偵小説だ。地道な積み上げと鮮やかな跳躍、どちらが欠けても成り立たないという意味では、探偵小説も科学と同じかもしれない。ぼくにとってはやはり、論理と論理を超えたものを同時に表現した探偵小説の創始者たるポーのほうが、超越性を喚起する詩や幻想小説を合理的に構築したポーよりも魅力的に映る。

なお本書には、以上に触れた三篇のほか、大江健三郎が作品のモチーフにした詩「アナベル・リー」、死と蘇生を扱う「ライジーア」と「ヴァルデマー氏の死の真相」(遅すぎた埋葬?)、巨大渦潮に飲まれるの巻「大渦巻への下降」、都市小説としての探偵小説の萌芽を示す「群衆の人」(ホームズの十八番となる職業当ても)、暗号解読が主眼の冒険小説「黄金虫」が採られている。

(文:ジラール・ミチアキ)

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