明治という国家
私事ながら、中学生の頃に「燃えよ剣」に出会って以来、司馬遼太郎氏のファンです。その本を読んでからはすっかり”歴史好きのちょっとオタク気味な女の子”に変貌、大学は史学科に進路を決めてしまうほど。すべての著作を読んだわけではないけれど、多くの司馬作品を読んできたわたしが何度も読み返しているのがこの『明治という国家』です。
本書は、司馬さんが1868年から1912年まで存在した「明治国家」についてさまざまな史実エピソードを織り交ぜながら語る作品。司馬ファンにとってはおなじみの本筋から逸れがちな余談もたっぷりで、しかも、NHKのテレビ番組を元にしたものだから講演を聞いているようで読みやすい。なぜテーマを明治時代でなく「明治国家」にしたかという理由は「明治国家にすると立体的ないわば個体のような感じがするから話しやすい、この机の上の物体を見るような気分で語りたいと思います」とのことで、愛着を持って語られながらもあくまでもフラットな視線で、客観的姿勢を崩さない。読み進めていくと、膨大な知識量と作家らしい描写で時代背景や思想、人物についてのエピソードがこれでもかというほど散りばめられ、教科書上の知識でしかなく、うすぼんやりとしていた「明治国家」というものが、次第に主人公じみてきて壮大な大河ドラマを見せられているような感覚になるから不思議である。
そして、この主人公には多くの偉大な父たち(ファーザーズ)が存在する。
幕臣でありながら「日本国」という江戸幕府や諸藩の殿様よりも高いレベルの概念をいち早く思想として持ち、最初の日本国民となった勝海舟。
「あのドックが出来上がった上は、たとえ幕府が亡んでも”土蔵付き売家”という名誉をのこすでしょう」と横須賀ドック建設プロジェクトを計画・実行した小栗忠順。彼は三河以来の旗本でありながら幕府崩壊後の日本を想った。日本最後のサムライたちを抱きしめながらともに滅んでいった西郷隆盛、自己と国家を同一化し、常に国家建設を考えていた大久保利通、このふたりに共通するのは卓越した無私の心。
諸外国からの植民地支配を避けるには自然国家から近代的な国家にならざるを得ず、それには国民が必要だった。結果として明治維新は、国民の創出を目的とした革命運動であった、とする。明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。高貴さをもたないリアリズムも国家には必要なのですが、国家を成立させている。その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧縮空気といってもよろしいが、そういうものの上にのったリアリズムのことです。昭和にはー二十年までですがーリアリズムがなかったのです。左右のイデオロギー”正義の体系”が充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても”明治国家”とは、べつの国、べつの民族だったのではないかと思えるほどです。司馬さんは、太平洋戦争時に青年期をむかえ、国を壊す愚かな人たちに失望し、昔の日本人はもっとまともではなかったのか?との疑問から日本史に傾倒していったという。
明治も昭和も今は遠く、平成も終わりを告げようとする2019年のいま、改めて国家とは、国民とは何か?と柄にもなく難しいことを考えた。そして明治の偉大な父たちの、フィクションではない確かな存在に、静かに感動を覚えた。
(文:森田茉美)
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