素晴らしいアメリカ野球

「野球から見た現代アメリカ史」の趣もあるフィリップ・ロス1973年の大作。現代アメリカ史といってももちろんこれは小説で、語られるのは現実世界に象嵌された偽史、現在知られる二大リーグとは別にかつて存在した第三のリーグ「愛国リーグ」の盛衰をめぐる物語である。

こういう小説をなんと呼べばいいのだろう。本道を見失わせかねない奇怪で蠱惑的な脇道の錯綜、やればやるほど募る無意味さのみを指し示す網羅的列挙、中庸という考え方を聞いたことがないか理解できない登場人物群に、なにかにつけてシモに流れる荒唐無稽な余談群。『トリストラム・シャンディ』や『神聖喜劇』を思い出させ、『モビー・ディック』における鯨がそう扱われるように野球についてのすべてを語りつくそうとする、ラブレー的、百科全書的情熱の所産。

これはどうやらノースロップ・フライのいう「メニッポス的諷刺」別名「解剖(アナトミー)」の一例らしい。フライによれば、フィクションは四つの主要な形式(小説、ロマンス、告白、アナトミー)に分類できる。「メニッポス的諷刺は」と彼はいう。「人間そのものよりも、人間のさまざまな精神的態度を扱うものである。衒学者、頑迷家、変物、成り上り者、山師、狂信者、あらゆる種類の貪欲で無能な専門家たち、メニッポス的諷刺はこういった人々の社会的行動ではなく、それとは区別された各自の我田引水的な人生観を扱う」(『批評の解剖』1957)。

不世出の大投手ギル・ガメシュも、頑固一徹正確無比の名審判マイク・マスタースンも、老人、子供、片腕の男、片足の男、小人などからなる衰退期ルパート・マンディーズの面々も、慰安訪問した彼らと対戦する精神病棟の住人たちも、マンディーズの監督フェアスミスがかつて野球の普及を試みたアフリカの密林に住む蛮族も、連盟の役員や球団オーナーや地元ファンたちも、そして語り手であるスポーツ記者ワード・スミスさえも、みながみなフライの挙げた貪欲で無能な専門家リストのどれか(またはいくつか)に見事に当てはまる。野球しか知らないやつもいれば野球さえ知らないやつもいる(そして、野球しか知らないやつのほうがたちが悪い。というのも、野球しか知らないやつの野球は、すでにどこか野球とは違っており、つまり彼が知っているものとはいったいなんだろうかと他人を考え込ませるからである)。

彼らはしごく真面目に野球という事件を巻き起こし、またそれに巻き込まれる。悪質なまでに密度の高い笑いの地雷原を進む満身創痍の読者がふと目尻に溜まった涙をぬぐうとき、その液体の流れ来たった上流のほうに一言で形容しにくいなにか複雑な感情があったことを思い出す。

たとえば精神病院の患者チーム・ルナティックスとルパート・マンディーズのエキシビジョン・ゲーム。

三回の表、ルナティックスの捕手と救援投手の様子がおかしい。捕手が何回サインを出してもピッチャーが応じないのだ。「だめだ」「いやだ」「い・や・だ!」「絶対にいやだ!」「冗談じゃないよ。そんな球を投げてみろ、野球はおしまいだ」とこんな調子。はじめこそ気丈に言い返していたキャッチャーだが、回数が重なるにつれて弱気になり、世をはかなむような泣きたいような気持が高じてくる。九回、十回、やはり投手は軽蔑的な言辞を吐いて首を横に振る。

そして十六回目のサイン、それを見た投手は思わず笑い出した。

ここでその内容は明かさないが、一番手キャッチャーがベンチに下がる前の最後のプレーとなるそのサインを知った読者の胸にわく感情をどう名づければよいだろうか。笑い、さらにいえば哄笑、また悲しみ、さらにいえば憐憫。それを的確に形容するのは難題であるし、あまり意味がないかもしれない。

野球のような俗悪な文化を材に採ってこの種の深い笑いが生まれるというのは、考えてみれば驚くべきことだ(同種の奇跡として蓮實重彦の野球論も思い出される。内容こそかなり違うがそこから得られる快楽の質は近い)。これは愛の力だろう。野球への愛。アメリカへの愛。愛の煮凝りとしての憎しみ。真剣に、徹底的に笑いのめしてこそ行間ににじむ愛。

おそらくフィリップロスはこう考えているのだろう。

野球とは人生であり(そうでなければ、自身の左側に飛んだボールを追わないという決断により心に平安を得た老境の三塁手がレギュラーとしてグラウンド上に存在できるはずはない)、人生とは野球である(そうでなければ、拗ねた愛人に「あなたがこの世で一番愛しているのはなんなの」と詰め寄られた大打者がベッド上で考えに考えた挙句出した答えが「三塁打だな」であるはずはない)。

野球とはアメリカであり(だから第二次大戦にアメリカが本腰を入れるとルパート・マンディーズのホームグラウンドは軍に接収され、マンディーズは永遠にロードをさまようジプシー球団になる)、アメリカとは野球である(だから共産主義は球界を根城にしてアメリカを蝕みはじめ、それゆえに愛国リーグは歴史から抹殺される)。

はじめに言葉ありき。その言葉は「プレイ!」

(文:ジラール・ミチアキ)

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