ジーザス・サン
When I put a spike into my vein
And I'll tell ya, things aren't quite the same
When I'm rushing on my run
And I feel just like Jesus' son
And I guess that I just don't know
And I guess that I just don't know
Velvet Underground “Heroine”
ベネット・ミラーの映画『フォックスキャッチャー』の批評で、ライムスター宇多丸さんが「これは誰も突っ込まないコメディだ」と言っていて、もうなんかこんなにもズバッと的を突いたことをこなにもシンプルに説明できてすごいなあ、とただただ感心したのですが、この『ジーザス・サン』もまさに誰も突っ込まないコメディという表現がぴったりな作品。思わず声に出して笑ってしまうほど可笑しいのに、もの凄く悲しい。でもやっぱり可笑しくて、感情が揺すぶられる。
タイトル『ジーザス・サン』はベルベット・アンダーグラウンドの『ヘロイン』の歌詞から。キリストの息子みたいな気分っていうのは、まあ最高にぶっ飛んでるとか、そんな風に解釈するのが正しいでしょう。触れるものすべてがクソに変わる(文字通りの意味じゃないよ)FUCKHEAD という渾名がついた主人公の一人称で語られる11編の物語には、ジャンキーだったり、犯罪者だったり、死にかけていたり、とにかく残念な人たちしか出てこない。また物語の中で起きる出来事も、OD、ドメスティックバイオレンス、交通事故、武装強盗などなど悲惨なものばかり。ジャンキーたちの会話は噛み合っているのかいないのか、良かれと思ってすることはすべて最悪な結果になり、まるでシュールなスラップスティック・コメディを見ているよう。ただ根底に流れるセンチメントは、もうすべてが終わってしまっているという強烈な手遅れ感で、高校のフットボールの選手はジャンキーになり、新築の建て売り住宅は洪水で打ち捨てられ、赤ん坊は生まれる前に中絶されてしまう。ODでぐちゃぐちゃになった記憶も、そんな感覚をこれでもかと畳み掛けて強調する。主人公がこれから始まると思っていることは、大抵もうすでに終わっていて、例えば、家で嫁が待ってる。あ、違った、離婚したんだった、みたいな調子。しかしながら、主人公はそんな現実を嘆くわけでも、非難するわけでもなく、ただ淡々と(ラリッてるくせに)醒めた調子で語るのです。そして、突然、ほとんど宗教的とも言ってもいいぐらいの悟りに至ったり、幻覚を見ているような情景描写を始めたりするのですが、その瞬間、ジャンキーのいい加減な first-person account が文学になる。
その奇跡。
好きなのは、この一文。
これはその年の春のことで、何種類かのサボテンがそのトゲからすごく小さな花を咲かせていた。毎日帰りのバスに乗るために俺は空き地を通り抜け、ときどきそういう花に行きあたった。小さなオレンジ色の、アンドロメダから落ちて来たみたいに見える花が、己の遠さのなかに青が吸いこまれて見える空の下、千百の色合いの茶色におおむね包まれた世界に囲まれていた。俺は目がくらみ、うっとりと魅了される。歩いていて、妖精が小さな椅子に座っているところに行きあたったとしても同じ気持ちになっただろう。(『べヴァリー・ホーム』)
詩ですね。
シンプルに見えて、技を使いまくっている作家なので、本当に何度読んでも新しい発見があります。そしてまんまと感動してしまう。が、そんな技巧的なことを考えなくても、最高に面白い作品なので、はい、読みましょう。ちなみに私の元カレはキリストに似ていて、よく「ジーザスさん」と呼ばれていました。ちゃんちゃん。
0コメント