タタール人の砂漠
若者の性の乱れが社会問題とされ、ともすれば厚いカーテンを閉めた視聴覚室に集められて、不純異性交遊はいけない、純潔こそ正義、と教えられてきたプロテスタント系女子校出身の人間ですが、最近テレビを観ていたら、どこの誰かは分からないハゲたおっさんが「最近の若者はセックスをしなくてけしからん。私たちが若い頃は……」と鼻息荒く語っているのを見て、ああ、本当に大人の言うことは聞いちゃいけないんだなと、つくづく思ったもういい大人の私です。そういえば、星新一のショートショートで、もはや性的なものに興味を持たない若者に、義務としてポルノを見せる、なんてのがあったなと思い出したり。それはともかく何が言いたいのかというと、人生は一度きり、若くいられるのも一度きり。思いっきり楽しんだ者勝ちです。このブッツァーティの超名作小説、『タタール人の砂漠』を読めば、ますますそう思うこと間違いないはず。
物語は、地獄のようだった士官学校を卒業し、念願の将校に任官したジョヴァンニ・ドローゴが任地バスティアーニ砦に赴くところから始まります。「何年来待ち焦がれた日、ほんとうの人生が始まる日」だとドローゴは思うのですが、ああ、なんたる皮肉、それは大きな勘違いなのです。砦は忘れ去られたような辺境の地にあり、唯一の任務は目の前に広がる『タタール人の砂漠』と呼ばれる石ころと乾いた大地の向こうから来襲するかもしれない敵を見張ること。しかし、国防上の重要性が皆無な地域にある砦に危機など起こるはずもなく、無為に繰り返される単調で孤独な日々の中、ドローゴは若さを失って行くのです。
まあ、言ってしまえば人生そのものの話。漠然と待っている栄光の瞬間なんて、結局は来ないんだよ、みたいな。そして気付いたらもうすべては手遅れだったり。1940年に書かれた本だけど、そのメッセージは現代を生きる人々にも強烈な印象を残すはず。規則を守るためだけに行われる砦での仕事は馬鹿げているように見えるけど、特定の資本家を儲けさせるためにオフィスの中であくせく働くという、私たちの多くが就いているであろう仕事と本質的には変わらないわけで。で、ドローゴも、なんというか責任感があって真面目でいいヤツで、容姿にコンプレックスがあるからちょっと引っ込み思案で、なんていうか究極の普通の人なわけです。(って、今、ティピカルな日本人という言葉を打とうとして気付いたけれど、この21世紀に生きる私がティピカルという言葉を使わされてるぐらいに本質をえぐった普遍的な人間の姿を描いているってことですね。すごい。)で、そんな普通の人にどんなことが待ち受けるのか、是非読んで体験して下さい。
物語自体も十分面白いのだけど、『タタール人の砂漠』の魅力はそれだけじゃなくて、前衛文学っぽい乾いた文体と自然への愛と畏怖が溢れる情景描写のミックスが創り出す独特な空気感がなんともクールで洒落ていて素敵。(ちなみに私はワンちゃんと同じぐらい、フィクションに出てくる山が好きなのですが、ブッツアーティの描く山は間違いなくベストスリーに入ります。)幻想譚、とカテゴライズされているようですが、なんというか独自のジャンルを作ってあげたいです。
「ジョヴァンニ・ドローゴよ、気を付けろ」と彼に言う者は誰もいなかった。青春はしぼみかけているのに、彼には人生は長々と続く、尽きせぬ幻影のように見えた。ドローゴは時というものを知らなかった。……彼にはただの、人並みな人生しか、両手の指で数えられるほどの、ごく短い青春しか、そんなみすぼらしい贈り物しか、与えられていないのだったし、そんなものは気づくよりも前に消え失せてしまうだろう。
これを読んでいる若い人がいたら、「気を付けろ」と言ってあげたいけど、まあ言われたところで分かんないんだろうな。私も分からなかったし。なにはともあれ、人生は短いのだから、面白い本読んで、おいしいもの食べて、旅に出て、できるだけ好きなことばかりして生きていこう、っていうのが最近の目標であります。
はい。
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