シカゴ育ち
寒い雪の日に決まって読む本がある。スチュアート・ダイベックの『シカゴ育ち』だ。私の書架にある「もはや何回読んでいるか分からない本セクション」の中の一冊で、カバーは擦り切れ、ページも若干黄ばんできてしまっているような状態なのだけど、そんな本こそたまらなく愛おしく感じてしまうのは、「読書狂あるある」なはず。
特に好きなのは、『冬のショパン』という一編。
主人公はシカゴの貧しい地域に住むポーランド系アメリカ人の少年。父親を戦争で亡くし、寡婦となった母親と、放浪の旅からふらりと帰って来た祖父のジャ=ジャと暮らしている。
ジャ=ジャの足はひずめに変化しかけているように思えた。かかとも足の裏も不恰好にはれ上がり、うろこのようなかさかさに覆われていた。馬の歯みたいに黄色い爪が、筋くれだった指先からくねくね伸びていた。若いころプロシア軍隊から脱走し、クラフクからグダニクスまで真冬の道をほとんど歩き通して、足が凍りついてしまったのだ。その後、アラスカで金鉱を掘っている最中、足はまたも凍ってしまった。ジャ=ジャの過去について僕が知っていることは、要するにだいたい全部、足の歴史だった。
ジャ=ジャはありとあらゆる胡散臭い職業を渡り歩きながら、放浪の人生を送っていて、よって家庭は蔑ろ、自分の妻(すなわち主人公の祖母)の葬儀すら参加しないという最低人間っぷりで、子供たちはもちろん、親戚一同から疎まれている。が、今ではすっかり衰弱し、主人公の家のキッチンで足湯をしながら憎まれ口を叩く日々を過ごしている。
血の繋がりはあるものの、何の共通点を持たない老人と少年。そんな二人を繋ぐのが音楽だ。
アパートの上の階に住んでいるマーシー、ニューヨークの音大に進学したが妊娠して一人帰って来た大家の娘、が弾くショパンを二人は一緒に鑑賞し始めるのだ。ジャ=ジャはショパンへの愛のため、そして主人公はマーシーへのほのかな憧れのため。
「あの娘はワルツを一つひとつ引き進んでおる」密談でもするみたいないつもの低いしわがれ声でジャ=ジャは言った。「まだ若いのに、ショパンの秘密を知っているよ—ワルツというのはだな、人間の心について、賛美歌なんかよりずっと多くを語れるんだ」
ジャ=ジャによるショパン講座は続き、主人公は聴くだけで曲名をすべて言い当てられるほどのショパン通になる。が、いつしかマーシーはほとんどピアノを弾かなくなってしまうのだ。
主人公とマーシーが直接言葉を交わすのは、冒頭のほんの短い一シーンだけ。にも関わらず、マーシーの苦悩、葛藤、そして秘めたる強い決意がすべて、上階から通気口によって増幅されたピアノの調べから伝わってくる。実際、ダイベックのリリシズムは、何気ない生活のシーンにも神話的な趣を与えていて、そんなコントラストがこの短編に独特の美しさを与えている。古いアパートに流れるショパンの調べ。考えてみると、ある意味これは魔法だ。
シカゴという場所のインダストリアルで寒々しく灰色なイメージ。しかも、物語の多くは貧しい移民が多く住むエリアで展開する。(『冬のショパン』に並ぶ素晴らしい短編のタイトルは、『荒廃地域』だ。)更には、故郷という拠り所を失ってしまった根無し草的な孤独が寒々しさに拍車をかける。わずか四ページの短編、『ファーウェル』の中で、ロシア移民のパボが語る言葉がよみがえる。
でもね、ひとつの場所に留まっていると、いずれ遅かれ早かれ、自分が属する場所がもうなくなってしまったことを思い出してしまうんだよ。
この物語の結末を「喪失」と捉えることもできるかもしれない。が、新しい生命は育まれ、たくましく成長していく。そして、それは新たなジェネレーションである主人公も同じなのだ。
それどころか、荒地地域指定というのは、考えようによっては、僕らに対する敬意の公式表明でもあった—何ブロックも続く工場、線路、トラック置き場、産業廃棄物処理場、鉄くず置き場、高速道路、下水運河などに囲まれながら、人々が自分の日常生活をなんとかそのなかに割り込ませていることに対する、渋々ながらの敬意の。(『荒廃地域』)
そう、強く、根を張って。
0コメント