Nagisa

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日日是好日「お茶」が教えてくれた15のしあわせ

「お茶って、なにが面白いの?」よく言われます。そのたびに詰まってしまう。茶道をはじめて約8年、初心者でなく中級レベルなのに全然できない。お点前の手順は忘れるし、紐の結び方とか覚えづらいし、季節によってお道具が変わったり袱紗捌きが変わったりしていつもパニック。ある意味、すぐにわからなくて出来ないからこそ、長く続けているんだと思う。読むまでは、漠然と「茶道」とか「お茶」について書かれた本なんだと思っていた。読了した今(すでに数回読んでる)、はっきり言えるのは「お茶」の本であって「お茶」の本でないということ。茶道のお点前の手順とか心構えとか、そんな内容じゃない。「お茶」をやった方がいい、だなんて一言も書いてない。あくまでも著者の約25年続けているお茶のお稽古を通して気づいた心の成長記録。上手くいかない就職、婚約していた恋人との別れ、家族の死…人生のさまざまな出来事の中で、どんな時でも淡々と毎週土曜日、お茶のお稽古は行われる。最初は訳がわからなかった所作や掛け軸、茶花などの意味がどんどんわかるようになっていく。ひとりの女性のお茶を通した精神的な成長の軌跡が大変読みやすいリズミカルな文章で綴られています。全部で15章、それぞれにテーマがあります。以下、抜粋。・頭で考えようとしないこと(第2章)/「今」に気持ちを集中すること(第3章)・季節を味わうこと(第6章) / このままで良い、ということ(第10章)・「自分の内側に耳をすますこと(第12章)」どうですか?人によって人生のステージはそれぞれだけど、きっとどれか心の琴線に触れるものがあるはず。ちなみに、わたしは「雨の日は、雨を聴くこと(第十三章)」が一番グッときた。雨の日は、雨を聴きなさい。心も体も、ここにいなさい。あなたの五感を使って、今を一心に味わいなさい。そうすればわかるはずだ。自由になる道は、いつでも今ここにある ~(中略)~ 過去や未来を思う限り、安心して生きることはできない。道は一つしかない。今を味わうことだ。過去も未来もなく、ただこの一瞬に没頭してできたとき、人間は自分がさえぎるもののない自由の中で生きていることに気づくのだ… ~(中略)~ 雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを。冬には、身の切れるような寒さを味わう。……どんな日も、その日を思う存分味わう。お茶とは、そういう「生き方」なのだ今、この瞬間を精一杯生きる。いい日も悪い日もなく、毎日の一瞬一瞬を感じ取ること。そう思っていれば、他人と比較して落ち込んだりしていることがアホらしくなる。自分を縛っているのは自分自身。考え方次第で毎日自由に生きられる。それは、著者の確かな経験に基づいた心の気づきからくるメッセージで、上っ面だけの自己啓発本よりも説得力がある。ここまでの精神世界をお茶のお稽古で感じることができるなんて、お茶って奥深い。なんとも幸せな読了感でした。きっとこれから何度も読みたくなる本で、読むたびに心に響くメッセージが違うんだろうなと思う。バリバリお茶をやっている人はもちろん(お稽古風景は共感しっぱなしでもっと書きたいくらい)、お茶に興味がなくても一度手にとってみてほしい。表紙だけでは絶対伝わらない。でも一度読むと大事な本になる。そんな本です。※2018年10月13日公開、映画化されています。先日亡くなられた樹木希林さんが出演されているとのことで話題に。映画もすでに見たのでおすすめだけど、やっぱりそれでも、本を読んでほしいと思います。(文:森田茉美)

シカゴ育ち

寒い雪の日に決まって読む本がある。スチュアート・ダイベックの『シカゴ育ち』だ。私の書架にある「もはや何回読んでいるか分からない本セクション」の中の一冊で、カバーは擦り切れ、ページも若干黄ばんできてしまっているような状態なのだけど、そんな本こそたまらなく愛おしく感じてしまうのは、「読書狂あるある」なはず。特に好きなのは、『冬のショパン』という一編。主人公はシカゴの貧しい地域に住むポーランド系アメリカ人の少年。父親を戦争で亡くし、寡婦となった母親と、放浪の旅からふらりと帰って来た祖父のジャ=ジャと暮らしている。ジャ=ジャの足はひずめに変化しかけているように思えた。かかとも足の裏も不恰好にはれ上がり、うろこのようなかさかさに覆われていた。馬の歯みたいに黄色い爪が、筋くれだった指先からくねくね伸びていた。若いころプロシア軍隊から脱走し、クラフクからグダニクスまで真冬の道をほとんど歩き通して、足が凍りついてしまったのだ。その後、アラスカで金鉱を掘っている最中、足はまたも凍ってしまった。ジャ=ジャの過去について僕が知っていることは、要するにだいたい全部、足の歴史だった。ジャ=ジャはありとあらゆる胡散臭い職業を渡り歩きながら、放浪の人生を送っていて、よって家庭は蔑ろ、自分の妻(すなわち主人公の祖母)の葬儀すら参加しないという最低人間っぷりで、子供たちはもちろん、親戚一同から疎まれている。が、今ではすっかり衰弱し、主人公の家のキッチンで足湯をしながら憎まれ口を叩く日々を過ごしている。血の繋がりはあるものの、何の共通点を持たない老人と少年。そんな二人を繋ぐのが音楽だ。アパートの上の階に住んでいるマーシー、ニューヨークの音大に進学したが妊娠して一人帰って来た大家の娘、が弾くショパンを二人は一緒に鑑賞し始めるのだ。ジャ=ジャはショパンへの愛のため、そして主人公はマーシーへのほのかな憧れのため。「あの娘はワルツを一つひとつ引き進んでおる」密談でもするみたいないつもの低いしわがれ声でジャ=ジャは言った。「まだ若いのに、ショパンの秘密を知っているよ—ワルツというのはだな、人間の心について、賛美歌なんかよりずっと多くを語れるんだ」ジャ=ジャによるショパン講座は続き、主人公は聴くだけで曲名をすべて言い当てられるほどのショパン通になる。が、いつしかマーシーはほとんどピアノを弾かなくなってしまうのだ。主人公とマーシーが直接言葉を交わすのは、冒頭のほんの短い一シーンだけ。にも関わらず、マーシーの苦悩、葛藤、そして秘めたる強い決意がすべて、上階から通気口によって増幅されたピアノの調べから伝わってくる。実際、ダイベックのリリシズムは、何気ない生活のシーンにも神話的な趣を与えていて、そんなコントラストがこの短編に独特の美しさを与えている。古いアパートに流れるショパンの調べ。考えてみると、ある意味これは魔法だ。シカゴという場所のインダストリアルで寒々しく灰色なイメージ。しかも、物語の多くは貧しい移民が多く住むエリアで展開する。(『冬のショパン』に並ぶ素晴らしい短編のタイトルは、『荒廃地域』だ。)更には、故郷という拠り所を失ってしまった根無し草的な孤独が寒々しさに拍車をかける。わずか四ページの短編、『ファーウェル』の中で、ロシア移民のパボが語る言葉がよみがえる。でもね、ひとつの場所に留まっていると、いずれ遅かれ早かれ、自分が属する場所がもうなくなってしまったことを思い出してしまうんだよ。この物語の結末を「喪失」と捉えることもできるかもしれない。が、新しい生命は育まれ、たくましく成長していく。そして、それは新たなジェネレーションである主人公も同じなのだ。それどころか、荒地地域指定というのは、考えようによっては、僕らに対する敬意の公式表明でもあった—何ブロックも続く工場、線路、トラック置き場、産業廃棄物処理場、鉄くず置き場、高速道路、下水運河などに囲まれながら、人々が自分の日常生活をなんとかそのなかに割り込ませていることに対する、渋々ながらの敬意の。(『荒廃地域』)そう、強く、根を張って。

心に残る人々

「白洲正子」という人物を知ったのは、戦後史を調べていた時、夫の白洲次郎氏を知ってから。維新を生き延びた薩摩の軍人樺山資紀を祖父に持ち、父は実業家で貴族院議員という深窓の令嬢でありながら、当時の女性としては珍しく海外渡航経験者で白洲次郎氏とは恋愛結婚。小林秀雄や青山二郎ら戦後日本を彩る文士たちとの交流や、古典芸術への愛着と理解、美に対する独自の審美眼が確立されていた人と知れば、そういった世界観にただ漠然と憧れを持つミーハーな自分が興味を抱くのにそう時間はかからなかった。本作は、昭和のとりわけ戦後を色濃く生きた芸術家・政治家などの各界著名人について語るエッセイである。「心に残る人々」として描かれているのは小林秀雄、梅原龍三郎、青山二郎、井上八千代、浜田庄司、岡本太郎、勅使河原蒼風、正宗白鳥、室生犀星などの文化人・芸術家から、祖父である樺山資紀、吉田茂、渋沢栄一などの教科書掲載レベルの偉人まで網羅していて「白洲正子」という人のスケール感にため息。各界を第一線で活躍する方たちとのコミュニケーションの中、裏表なく真っ直ぐに持論を展開する白洲正子節がなんとも清々しい。特に印象的だったのは「勅使河原蒼風」と「井上八千代」の一編。いけばな草月流創始者の勅使河原蒼風氏に対しては「草月流を芸術として全面的に認めていないことは事実です」とピシャリ。オスカーワイルドの「芸術作品は常に唯一だ。何一つ恒久的なものを作らない自然は常にくり返す」を引用し、草月流の新しさを認めつつも、複製可能である点で芸術ではない、と続く。対する蒼風氏も「花のことを知りたい」と切り出す著者に「あんたはなんでも知ってるくせに人が悪い」とふわっとかわす。お稽古風景も一切見せない徹底ぶりで取材に行ったのに非常に警戒されている。かといって二人の会話がギスギスしているわけでもない。蒼風氏の類まれな社交性を讃えながらあくまでも草月流には一貫して著者は懐疑的で、ハラハラしながらも知的な緊張感で読み進められた。京舞井上流の「井上八千代」編では、著者自身がお能を幼い頃より習っていたこともあり、日本の芸道の「形」についての話や京都論について筆が冴えまくっている。京都に生まれ育った人間として、京都の得体の知れない魅力と束縛性、それでも住んでいる人間は京都以外に安住の地はないと言いきってしまう京都人あるあるへの洞察が的を得ていて、思わず笑ってしまった。その他にも「小林秀雄」「梅原龍三郎」ではそれぞれのモネ論が展開され、当時の文化人の異なる印象派への捉え方が垣間見得て興味深い。正子節がより際立っているのは、わざわざ「書く」ために訪問している場合が多く、渋沢栄一などは、伝記を読んでいるようでさらさらと読み流してしまった。この本では、書く側と書かれる側の対峙のシーンがなによりもおもしろい。相手がどんな立場であれ本質を見定めようとする著者の気質にも凄みを感じ、この情報過多の世の中で「本質を見抜く力」を自分も身につけたい、と改めて感じた。さまざまな人とのコミュニケーションの中で著者の文化芸術に対する知識と価値観が一貫していて、「芸術とは何か」と考えさせてくれる本。文化芸術全般に興味がある方、一度読んでみてはいかがでしょう?(文:森田茉美)

いなごの日/クール・ミリオン:ナサニエル・ウエスト傑作選

フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』が文庫で復刊した。うれしい。元は集英社から出ていたが、今度は新潮文庫。「村上柴田翻訳堂」というシリーズの一冊だ。ザラッとした質感のスカイブルーのカバーで統一されたこのシリーズは、全部で10タイトルあり、累計発行部数は20万部を超えているそう。そのラインナップの一冊が、『いなごの日/クール・ミリオン:ナサニエル・ウエスト傑作選』です。ナサニエル・ウエストという作家、知ってました? ぼくは知らなかった。なので調べてみました。1903年生まれ、本名をネイサン・ワインスタインというアメリカのユダヤ系作家。集英社の『世界文学事典』によると、〈高校中退のまま、不正な手段でタフツ大学に入学するが中退。ついでブラウン大学にも不正入学して、1924年に卒業する〉と紹介されている。なんかすごい。只者ではない感が。で、三ヶ月のパリ遊学ののち、ホテルで働きながら第一作の『バルソー・スネルの夢の生』を執筆。その後、文芸誌編集の仕事と並行して第二作『孤独な娘』を書き上げ、1933年に刊行。1934年に第三作、1939年に第四作を発表。その翌年、交通事故により37歳で夭逝する。つまり30年代に発表された四作がウエストの長編のすべてということになる。本書は、その四作のうちの二作をカップリングしている。お得感あり。掲載順に紹介していきます。最後の作品となった『いなごの日』の舞台はハリウッド。といっても出てくる映画人はいずれもその末端に引っかかっている程度の貧乏人ばかり。主人公トッドは美学校を出たての美術見習いで、彼が好意を寄せるフェイは女優志望。いつもおそろしくケンカ腰の〈小人〉エイブや、複雑で華麗なチックを操るホーマーなど、映画界とは無関係の登場人物もいるが、ホーマーの借家に置いてある〈ペンキを塗っていない松に見えるようにペンキを塗った〉タンスのように、どのみち彼らもウソとホントが背中合わせの虚飾の都市の生活者です。とくべつドラマチックな出来事は起こらない。半分以上メッキの剥げたようなグロテスクな煌びやかさと出所不明なのに切実な熱量に満ちた彼らの日常が、鋭い筆致で活写されていく。作中でトッドが「燃えるロサンゼルス」に描き出そうとした世界の小説版がこの作品なのかも。 第三作『クール・ミリオン』では反対に、物語がどんどんと転がっていきます。少年ピトキンが成功を求めてニューヨークを目指すが、出会う人物のみながみな、少年の人生に重大な進路の変更をもたらす。ずいぶんとご都合主義的な偶然が重なるなと感じるが、実はこれ、『ぼろ着のディック』などの少年小説で人気を博したホレイショー・アルジャーのパロディなのだそう。アメリカン・ドリームを体現するアルジャーの主人公とは対照的に、われらがピトキンは……。ああ!  読み進めれば、「レミュエル・ピトキンの解体」という副題の示すおぞましさに気がつくはず。ブラック。まったくタイプの違う長編二作、いずれも読み応えがあるけど、収録作はこれだけではない。生前は出版の機会に恵まれなかった短編群から厳選した二編も収められている。シュルレアリストと交わったというパリ時代の経験を下敷きにしたと思われる「ペテン師」なんかけっこうおもしろい。〈芸術家はみんな狂っている(べき)〉という誤った信念がもたらす悲喜劇とでもいうか。『素晴らしいアメリカ野球』は旧訳の復刊だが、本書は柴田元幸の新訳。「訳者あとがき」のあとには、シリーズ恒例、村上春樹×柴田元幸の「解説セッション」もあり、全体で500ページを超える。で、税抜750円。作品の内容もさることながら、この良心的なパッケージングも魅力。個人的にはこのシリーズ、10作で終わらせず、第2弾もやってほしい。(文:ジラール・ミチアキ)

すべての見えない光

「本を読む意味なんてないんだよ」と、ちょっとカッコつけた感じで言ってきた人がいて、もちろん私は「そうなんですか」なんて言いながら愛想笑いをしていたけど、心の中では「ああ、こいつダサいな」と心底うんざりしながら思っていた。人が情熱を持ってしていることを意味がない、と言ってしまう時点でどうかと思うし、それに意味がないと決め付けられるほど、お前は本を読んでいるのかと問いただしたかった。もちろん、そんなこと、しないけど。孤児院で育ったドイツ人少年ヴェルナーは、明晰な頭脳と科学の才能を買われて国家政治教育学校に入学、士官候補生としての過酷な訓練を受けた後、ナチスドイツ軍の兵士となる。一方、幼くして視力を失ったフランス人のマリー=ロールは、空襲が激しくなるパリからイギリス海峡に面した北西部ブルターニュ地方の城壁に囲まれた港町サン・マロに父親と共に疎開する。物語は戦争に翻弄される二人の人生を交互に行き来しながら進行し、持つ者には永遠の命を、その周りのものには不幸を与えると言われる伝説のダイヤモンド<炎の海>を巡り展開、そして二人が会遇するある瞬間へと集約していく。間違いなく今世紀書かれた小説ベスト100選なんかに入って、後世まで読み継がれていくだろうなという名作。まず素晴らしいのが、ドーアの十八番とも言える、まばゆく輝くような美しい筆致。そしてその筆致だからこそ描くことのできるテーマです。僕は昔から、大学の学問で科学と芸術を分けてしまうことに疑問を感じていました。今までに書いた五冊の本はどれも、そのふたつを結びつける方法を模索するものです。マリー=ロールだけでなく、ヴェルナーを描くときも、僕は世界のこんなところに魅了されているんだよ、と言おうとしています。物語を通じて、他の人たちにもそれと同じ思いを持ってもらえたらと思っています。そのドーアを魅了する「こんなところ」は、ともすると目に見えないのです。よくよく考えれば驚異以外の何物でもないのに、多くの人にとって当たり前になっていて、物理的に見えていても見えないもの。ドーアは私たちを取り巻く自然の驚異を鮮やかに描き出します。タイトルからも分かるように、この小説の大きなテーマは「見えない」こと。目が見えないマリー=ロールの想像力に満ち溢れた豊かな世界や、「生まれつきのやさしさで輝くような」魂を持つヴェルナーの見えないものを純粋な謎として見る繊細な感性に触れるにつれ、目に見えることばかりが大切にされる世の中で、私たちが見ていることはほんのわずかなことだと気付かされます。(もしかしたら、パソコンのモニターや、スマートフォンの中だけかもしれません。)この作品のエンディングがとても感動的なのは、「見えない」ものを見る力を、私たちが取り戻せた状態で読むから。実際、小説の世界なんてすべて「見えない」もの。でも、こんな素晴らしい小説を読んだ後には、自分というものを形成する何かが変わっている。そして考えてみたら、こんな風に、これを書いている私と、今読んでいるあなたの人生が交錯していることも、実はちょっとした奇跡なんだなんて思わせてくれる。クレストブックで518ページという大作は、なんと執筆に10年も費やされたそう。そして、ここは声を大にして言いたいのですが、ウェルズ・タワーの『奪い尽くされ、焼き尽くされ』も手掛けた藤井光さんの訳もただただ素晴らしい。もう藤井光さんが毎日幸せに生きられるように祈りたいレベルに素晴らしいです。「本を読む意味なんてない」なんて思っている人には、是非とも読んでもらいたい素晴らしい作品。ちなみに、失明するぐらいに本を読み続けると、読んだ人にしか分からない特殊な能力が付きます。私はそれが本を読む意味なんじゃないかなとぼんやりと考えています。なにはともあれ読んで間違いのない作品。オススメです!

あひる

今村夏子の二冊目の単行本『あひる』には、表題作と書き下ろしの二篇が収録されています。芥川賞にノミネートされた「あひる」の初出は、福岡の文芸誌「たべるのがおそい」の創刊号で、五大文芸誌以外からの同賞候補ということでも話題でした。残念ながら受賞は逃しましたが(受賞作は村田沙耶香「コンビニ人間」)、今村夏子のカムバック自体を喜んだ本好きも多かったはずです。2010年に太宰治賞を受賞し、受賞作を改題した「こちらあみ子」と新作「ピクニック」を収めた『こちらあみ子』で三島由紀夫賞を受賞した今村夏子は、それ以降沈黙を守っていました。「こちらあみ子」も不思議な魅力をたたえた名作ですが、何食わぬ顔で繰り出される「ピクニック」のユーモアが強烈で、見慣れない昆虫が視界の外から急に飛んできたような新鮮な驚きが忘れられません。そして、待ちに待った『あひる』は、期待にたがわぬ面白さでした。ことに表題作。主人公の女性は、実家で両親と暮らしながら、医療系の資格を取得するべく勉強に励んでいます。そこに、とある事情でのりたまという名の一羽のあひるがもらわれてくる。あひるは近所の子どもたちの人気者となり、主人公一家の生活にも変化が訪れます。簡単にいえば、そういうお話しです。舞台はごく日常的な範囲に限られます。文体も平易で、余計な文飾はない。しかし、このざわつきの印象はなんでしょうか。平穏かつ不穏、といった矛盾した形容がつい浮かびます。わりと最初のほうにこんな一文があります。〈食事中の話題は、のりたまに会いにくる子供たちに関することばかりになった。元々、わたしたち三人の食事時には話題というものがなかった。あっても、宗教関係のことを母が父にぼそっと伝えて、父がそれに小さくうなずいておしまいだった〉。宗教関係? なんのことでしょうか。この話題、ほかにはほとんど出てこないのですが、わたしはすぐ新興宗教だと思いました。直後には、今は家を出た弟がかつてぐれていたことが語られています。これもそうは書いていませんが、家族への暴力もふくむ息子の不良化が、両親を新興宗教に走らせたのかもしれません。書きすぎないという引き算の美学が静かに不安を醸成していきます。そしてそれは、語り手である主人公の立場や関心のかたちとも連動しています。〈わたしはまだ仕事をしたことがない〉ので、主人公はいわばおとなと子どもの中間にいます(この語りの率直さといったら!)。また、資格を得て職に就けば家を出るかもしれませんから、いながらにして半分は地域から外れているともいえます。このような主人公のスタンスを暗示しているのが、普段勉強に使っている〈二階〉という空間です。あひるに会いにきた男の子が二階の窓を指して「人がいる」と驚く微笑ましいシーンで、私たちはそのことに気づかされます(ちなみに、この同じ箇所を「ゾッとするシーン」だとする感想を聞いたこともあります)。子どもたちのお誕生日会の悲しみ、同じ日の夜の恐怖とその(中途半端な)溶解、そしていくつもの笑い、長めの短編といっていいくらいの作品のなかで、読者はいろいろな感情を抱きます。どれも翻弄されるというほど強くはありませんが、ずっとなにか落ち着かないかんじです。主人公の曖昧な立場と、つかず離れずの淡白な語りがそれを煽っているようです。肝心のあひるについてほとんど触れていませんでしたが、もちろん重要なモチーフです。かわいいペットとして愛されているのは確かなのですが、そう単純でもない。〈(あひるが)なかなか小屋へ入ろうとしないので、父が餌を撒いて誘導しようとした〉という場面がありますが、このあひるこそが子どもたちを家へおびき寄せる餌なのです。愛情の対象であり、その手段でもある。あひるが受ける取り扱いにはそんな奇妙さがあります。テレビゲームなどで、ゲームオーバーになったあとコンティニューするかどうか尋ねる画面が出てきて、時間内に操作しないと続きができなくなってしまいます。あひるは、そのように死にます。未読の人にはうまく伝わらないでしょうが、悲しみと可笑しみがないまぜになった、なんともいえない展開です。この味わい、ぜひじかに堪能してください。(文:ジラール・ミチアキ)

菜食主義者

ハン・ガンに夢中だ。人にはあまり言わないけれど、私の中の大きな小説の良し悪しの判断基準は、自分で書けそうか、書けそうかじゃないか、というもの。「これは書けそうだな」、というものもあれば、「これは無理だけど書けそう」とか、「書けなさそうだけどもしかしたら書けそうとか」、めんどくさい自分の中の基準が色々とあるのです(書けないくせに)。そして、『菜食主義者』。珍しく出ました、「絶対書けない!」そういえば、昔、もうどうでもいいやとヤケッパチのように付き合っていた人がいて、その人と食事をしていた時、私が何だったかは忘れてしまったのだけど何かに対して「絶対そうだ」と言ったら、「絶対なんて絶対ないんだ」と突然キレられ、それからズルズルと喧嘩になり、それが最後のデートになったなんてことがあった。なんて話が逸れてしまったが、『菜食主義者』、とにかくよかった。ざっくりどんな話かというと、ある日を境にベジタリアンになってしまったヨンヘをめぐり起こる三年間の出来事を、彼女の夫、義兄、そして実姉の視点から描いた物語。一章を読んだ時、ああ、こんな感じのストーリーラインかな、という予想と全く違った怒涛の展開に、正直度肝を抜かれた。ハン・ガンの冷徹な視線と、詩人としての天賦の才で、経験したことのないような、奇妙で、暴力的で、鮮明な世界にどっぷりと浸っている自分がいた。呼吸が苦しくなるぐらい、性的な興奮を覚えた。えぐられるような痛みを感じながらも、読みやめられなかった。「慰めや情け容赦もなく、引き裂かれたまま最後まで、目を見開いて底まで降りていきたかった」という気持ちで書かれたこの物語のエンディング、主人公の一人である「彼女」の目に浮かんだ希望、失われることのない生きる意思に、なぜハン・ガンが失われた時勢である中動態、強制はないが自発的でもなく、「自発的ではないが同意している時を表す時勢」(*) を一つのテーマにした小説である『ギリシャ語の時間』を書かねばならなかったのか、理解できたような気がした。生きるということの残酷さ。それでも生きようとしてしまう、人間の性。ジレンマを究極的な対比の中に描くのが上手い作家なのですな。この世に生まれてきてこれを読まないのはもったいない! というぐらいの名作。絶対後悔させません。って、絶対はないのか。でも、あの時、「絶対は絶対ない」と言われた時、「絶対に?」って言い返すことを時々、通勤電車の中とかで妄想している自分がいたりします。今年ももう半分終わりですね。(*)國分功一郎『中動態の世界』より

読書狂時代 VOL. 5

TOKYO WISE での連載、読書狂時代がアップされました。テーマは『本とカレー』! 得意分野で真っ向からのストレート勝負です。って、誰とも、何とも戦ってないけど。毎日のようにカレーを食べている私ですが、最近やっと自分の趣向が分かってきて、それは『日本人が作るオリジナルの日本カレーが好き』だということ。ナンでもなく、バスマティでもなく、日本米でカレーが食べたいのです。分析不能なスパイスの配合で作られた、まさに秘伝という名にふさわしいオリジナルのルーで勝負している職人気質のカレー屋さんが好きなのです。じゃあ、文学の趣向はというと、故意にそうしているということもあるけれど、ストライクゾーンが広い。でも、敢えてどんな本が好きかなと考えているうちに、今までの人生の中で一番多く読んだ本がヒントになるのではと思いつき、本棚を見てみると明らかにボロボロになっている(そしてその隣に新しい本が並んでいる)本が三冊ほど。『白鯨』、『カメレオンのための音楽』、『変身物語』。あ、芥川の『河童・歯車』の短編も。死んだらこの四冊をお棺に入れてもらおうと思ってから、お棺に入れるのならば別の本かもなんて考えながら本棚を眺めるのがこれまた楽しいのです。

宇治拾遺物語

町田康といえば、犬。バンドの犬。犬といえば、昔、町田康はステージ上でよく◯を殺してたという噂話を年上の友人から聞き、ああ、なんかそういうタイプの人間心から嫌だなあと悍ましく思っていて、今村夏子の『こちらあみ子』の受賞会見の時も ↓ のようなやりとりがあったらしく 米:受賞会見がネット中継されていて、記者が「特異なケースの人の話で自分たちとは関係ないと思う人もいるのではないか」というすごい質問をして。千:ええっ。米:選考委員代表の町田康さんが「こわれたトランシーバーで交信しようとする姿はまさにぼくたちの姿じゃないのですかッ!?」って答えていて、読んだ時の気持ちを思い出してジーンとした。って、この発言とかもなんだかとてもピントがずれているというかトンチンカンなような気がして(そういう分かりやすい「『人間失格』は俺のために書かれたんだ」的感傷というか感情移入を巧みに操っているのが今村夏子の天才なのであり)、だからやっぱり◯にあんなことができたんだ、なんてどうしても◯に帰結してしまい、『夫婦茶碗』とか『告白』とか『くっすん大黒』とか読んだけどやっぱり◯が頭に浮かんでしまい(イメージは色川武大の『僕の犬、僕の猿』)、まあとにかく私には良さが理解できない作家の一人だったのです。が、この本に関していうと町田康の現代語訳が圧巻で、疾走感のある文章と共にストーリーテリングの本質をえぐり、古典を読むことに新しい意味を与えていて、もうこの人、この訳をするためにこの世に生を受けて来たのではないかと思うぐらいに素晴らしいのです。◯が浮かばなかった! また、物語自体も放屁、千摺り、チンコ外し(!)と、悪ふざけたっぷりな奇想天外な物語はとにかく爆笑の連続。私たちの御先祖様たちは、こんな話をしながらクスクス笑い合っていたんだなと思うと、日本人であることがなんとも愛おしく感じられるはず。本当に、なんでこういうの古典の授業で取り上げてくれなかったんだろうと憤りなんかも感じてしまったり。 で、このブログを書くために「町田康 犬 ◯殺し」で検索してみたのだけど、出てくるのは町田先生がニコニコしながら◯に囲まれている写真やら、動物愛護のシンポジュームに登壇なさった記録やら、◯殺しどころか愛◯家代表のようになっているではないですか! まさかそんな方が昔はパフォーマンスとして◯を殺していたなんてありえないはず。となると、私の今までの嫌悪感はなんだったんだと、まるで三島由紀夫の『豊饒の海』四部作を読み終えた時のように狐につままれたような気持ちで取り残される夏の終わりなのです。って、なんだか頭おかしい人の勝手な中傷みたいになってないといいけど。噂を信じちゃいけないね。

ずっとお城で暮らしてる

少女の無垢さが、不気味だったりグロテスクだったり邪悪だったりする何かと融合して、渾然一体になっている小説なり映画なりが大好きだ。例を挙げるなら、ピーター・ウィアー監督の『ピクニックat ハンギングロック』、ヤロミール・イレシュ監督の『ヴァレリエの不思議な一週間』(これにはすごい邦題が付いていて:闇のバイブル 聖少女の詩)、テリー・ギリアム監督の『タイドランド』、『サスぺリア』はそのまますぎるかもしれないけれどでも好きで、最近ぐぐっと来たのはカルロス・ベルムト監督の『マジック・ガール』。『マジック・ガール』については、『本のPR』 がその名の通り本についてのブログだということを無視しても熱く書きたいぐらいグッと来たのだけど(ちゃんと江戸川乱歩と絡めてね)、それは置いておいて、みんな大好きシャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』について書きます。あたしはメアリ・キャサリン・ブラックウッド。十八歳。姉さんのコンスタンスと暮らしている。運さえよければオオカミ女に生まれていたかもしれない。何度も考えたことがある。なぜってどちらの手を見ても、中指と薬指が同じ長さをしているんだもの。だけどそのままの自分で満足してなくちゃいけなかった。きらいなのは身体を洗うことと、イヌと、うるさい音。好きなのはコンスタンス姉さんと、リチャード・プランタジネット(*注 十五世紀イングランド王族)と、アマニタ・ファロイデス―――タマゴテングタケ(*注 猛毒のあるキノコ)。ほかの家族はみんな死んでしまった。お城のような屋敷に住むのは、通称メリキャットと呼ばれるメアリ・キャサリン・ブラックウッド、その姉で金髪碧眼の美しいコンスタンス、そして二人の叔父であるジュリアン・ブラックウッド。ほかの家族は、屋敷での食事中、デザートのブラックベリーにかけた砂糖のせいで殺されていた。そう何者かが毒を混入したのだ。事件の当時、メリキャットはお仕置きで部屋に閉じ込められていたため、容疑は食事を用意したコンスタンスへ。証拠不十分で投獄は免れたものの、彼女たちを取り巻く環境はがらりと変化。村人は残忍な大量殺人の容疑者であるコンスタンスを憎悪し、彼女は否応なくも屋敷に閉じ込められることとなり、週に二回、やむなく町へ食料の買い物に行くメリキャットもひどい嫌がらせや罵詈雑言に曝されるのだ。というのが、ざっくりとしたあらすじ。文学的なカテゴリーに言及することすら若干ネタバレになりそうなぐらい、内容に触れずにこの本の面白さを紹介するのは難しいのだけど、まあ一言でいうと嫌な話です。読後に色々な想像が浮かんで来て、「あれ、もしかして、これってああいうことだったの?」的なことがふと頭に過っては、嫌な気分になれるという楽しみ方ができてしまう素晴らしい本。で、ここでまた『マジック・ガール』に戻るのだけど、登場人物の一人がある部屋に入っていくシーンがあって、その部屋でどうしようもなく邪悪で残酷なことが起こったのは分かるのだけど、実際に何が起こったことは完全にカットされていて映像的な説明は全くされないのです。一体、あの部屋で何が起こったのか? 自分の想像力の度合いによって恐ろしさが変わってくる。そして自分の想像力がそもそも恐ろしくなってくる。善良なはずの自分なのに、こんなにも暗くサディスティックなことを想像してしまっているから。暗く果てしのない深淵が存在しているから。『ずっとお城で暮らしてる』で何が起こったのか、どうぞ実際に読んで確かめてみて下さい。物語としても純粋に面白いし、またお菓子と植物と毒が入り混じった世界観も(世界観って言葉、安易で嫌いなんだがまあいいか)とても魅力的です。ちなみに、シャーリイ・ジャクスンは『くじ』という短編小説を書いていて、小さな町で年に一度、くじを引いて当たった人を投石で殺すというチャーミングな話なのですが、それがトラウマ級に嫌な気持ちになるのでご興味がある人はそちらも是非!