Nagisa

記事一覧(47)

菜食主義者

ハン・ガンに夢中だ。人にはあまり言わないけれど、私の中の大きな小説の良し悪しの判断基準は、自分で書けそうか、書けそうかじゃないか、というもの。「これは書けそうだな」、というものもあれば、「これは無理だけど書けそう」とか、「書けなさそうだけどもしかしたら書けそうとか」、めんどくさい自分の中の基準が色々とあるのです(書けないくせに)。そして、『菜食主義者』。珍しく出ました、「絶対書けない!」そういえば、昔、もうどうでもいいやとヤケッパチのように付き合っていた人がいて、その人と食事をしていた時、私が何だったかは忘れてしまったのだけど何かに対して「絶対そうだ」と言ったら、「絶対なんて絶対ないんだ」と突然キレられ、それからズルズルと喧嘩になり、それが最後のデートになったなんてことがあった。なんて話が逸れてしまったが、『菜食主義者』、とにかくよかった。ざっくりどんな話かというと、ある日を境にベジタリアンになってしまったヨンヘをめぐり起こる三年間の出来事を、彼女の夫、義兄、そして実姉の視点から描いた物語。一章を読んだ時、ああ、こんな感じのストーリーラインかな、という予想と全く違った怒涛の展開に、正直度肝を抜かれた。ハン・ガンの冷徹な視線と、詩人としての天賦の才で、経験したことのないような、奇妙で、暴力的で、鮮明な世界にどっぷりと浸っている自分がいた。呼吸が苦しくなるぐらい、性的な興奮を覚えた。えぐられるような痛みを感じながらも、読みやめられなかった。「慰めや情け容赦もなく、引き裂かれたまま最後まで、目を見開いて底まで降りていきたかった」という気持ちで書かれたこの物語のエンディング、主人公の一人である「彼女」の目に浮かんだ希望、失われることのない生きる意思に、なぜハン・ガンが失われた時勢である中動態、強制はないが自発的でもなく、「自発的ではないが同意している時を表す時勢」(*) を一つのテーマにした小説である『ギリシャ語の時間』を書かねばならなかったのか、理解できたような気がした。生きるということの残酷さ。それでも生きようとしてしまう、人間の性。ジレンマを究極的な対比の中に描くのが上手い作家なのですな。この世に生まれてきてこれを読まないのはもったいない! というぐらいの名作。絶対後悔させません。って、絶対はないのか。でも、あの時、「絶対は絶対ない」と言われた時、「絶対に?」って言い返すことを時々、通勤電車の中とかで妄想している自分がいたりします。今年ももう半分終わりですね。(*)國分功一郎『中動態の世界』より

読書狂時代 VOL. 5

TOKYO WISE での連載、読書狂時代がアップされました。テーマは『本とカレー』! 得意分野で真っ向からのストレート勝負です。って、誰とも、何とも戦ってないけど。毎日のようにカレーを食べている私ですが、最近やっと自分の趣向が分かってきて、それは『日本人が作るオリジナルの日本カレーが好き』だということ。ナンでもなく、バスマティでもなく、日本米でカレーが食べたいのです。分析不能なスパイスの配合で作られた、まさに秘伝という名にふさわしいオリジナルのルーで勝負している職人気質のカレー屋さんが好きなのです。じゃあ、文学の趣向はというと、故意にそうしているということもあるけれど、ストライクゾーンが広い。でも、敢えてどんな本が好きかなと考えているうちに、今までの人生の中で一番多く読んだ本がヒントになるのではと思いつき、本棚を見てみると明らかにボロボロになっている(そしてその隣に新しい本が並んでいる)本が三冊ほど。『白鯨』、『カメレオンのための音楽』、『変身物語』。あ、芥川の『河童・歯車』の短編も。死んだらこの四冊をお棺に入れてもらおうと思ってから、お棺に入れるのならば別の本かもなんて考えながら本棚を眺めるのがこれまた楽しいのです。

宇治拾遺物語

町田康といえば、犬。バンドの犬。犬といえば、昔、町田康はステージ上でよく◯を殺してたという噂話を年上の友人から聞き、ああ、なんかそういうタイプの人間心から嫌だなあと悍ましく思っていて、今村夏子の『こちらあみ子』の受賞会見の時も ↓ のようなやりとりがあったらしく 米:受賞会見がネット中継されていて、記者が「特異なケースの人の話で自分たちとは関係ないと思う人もいるのではないか」というすごい質問をして。千:ええっ。米:選考委員代表の町田康さんが「こわれたトランシーバーで交信しようとする姿はまさにぼくたちの姿じゃないのですかッ!?」って答えていて、読んだ時の気持ちを思い出してジーンとした。って、この発言とかもなんだかとてもピントがずれているというかトンチンカンなような気がして(そういう分かりやすい「『人間失格』は俺のために書かれたんだ」的感傷というか感情移入を巧みに操っているのが今村夏子の天才なのであり)、だからやっぱり◯にあんなことができたんだ、なんてどうしても◯に帰結してしまい、『夫婦茶碗』とか『告白』とか『くっすん大黒』とか読んだけどやっぱり◯が頭に浮かんでしまい(イメージは色川武大の『僕の犬、僕の猿』)、まあとにかく私には良さが理解できない作家の一人だったのです。が、この本に関していうと町田康の現代語訳が圧巻で、疾走感のある文章と共にストーリーテリングの本質をえぐり、古典を読むことに新しい意味を与えていて、もうこの人、この訳をするためにこの世に生を受けて来たのではないかと思うぐらいに素晴らしいのです。◯が浮かばなかった! また、物語自体も放屁、千摺り、チンコ外し(!)と、悪ふざけたっぷりな奇想天外な物語はとにかく爆笑の連続。私たちの御先祖様たちは、こんな話をしながらクスクス笑い合っていたんだなと思うと、日本人であることがなんとも愛おしく感じられるはず。本当に、なんでこういうの古典の授業で取り上げてくれなかったんだろうと憤りなんかも感じてしまったり。 で、このブログを書くために「町田康 犬 ◯殺し」で検索してみたのだけど、出てくるのは町田先生がニコニコしながら◯に囲まれている写真やら、動物愛護のシンポジュームに登壇なさった記録やら、◯殺しどころか愛◯家代表のようになっているではないですか! まさかそんな方が昔はパフォーマンスとして◯を殺していたなんてありえないはず。となると、私の今までの嫌悪感はなんだったんだと、まるで三島由紀夫の『豊饒の海』四部作を読み終えた時のように狐につままれたような気持ちで取り残される夏の終わりなのです。って、なんだか頭おかしい人の勝手な中傷みたいになってないといいけど。噂を信じちゃいけないね。

ずっとお城で暮らしてる

少女の無垢さが、不気味だったりグロテスクだったり邪悪だったりする何かと融合して、渾然一体になっている小説なり映画なりが大好きだ。例を挙げるなら、ピーター・ウィアー監督の『ピクニックat ハンギングロック』、ヤロミール・イレシュ監督の『ヴァレリエの不思議な一週間』(これにはすごい邦題が付いていて:闇のバイブル 聖少女の詩)、テリー・ギリアム監督の『タイドランド』、『サスぺリア』はそのまますぎるかもしれないけれどでも好きで、最近ぐぐっと来たのはカルロス・ベルムト監督の『マジック・ガール』。『マジック・ガール』については、『本のPR』 がその名の通り本についてのブログだということを無視しても熱く書きたいぐらいグッと来たのだけど(ちゃんと江戸川乱歩と絡めてね)、それは置いておいて、みんな大好きシャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』について書きます。あたしはメアリ・キャサリン・ブラックウッド。十八歳。姉さんのコンスタンスと暮らしている。運さえよければオオカミ女に生まれていたかもしれない。何度も考えたことがある。なぜってどちらの手を見ても、中指と薬指が同じ長さをしているんだもの。だけどそのままの自分で満足してなくちゃいけなかった。きらいなのは身体を洗うことと、イヌと、うるさい音。好きなのはコンスタンス姉さんと、リチャード・プランタジネット(*注 十五世紀イングランド王族)と、アマニタ・ファロイデス―――タマゴテングタケ(*注 猛毒のあるキノコ)。ほかの家族はみんな死んでしまった。お城のような屋敷に住むのは、通称メリキャットと呼ばれるメアリ・キャサリン・ブラックウッド、その姉で金髪碧眼の美しいコンスタンス、そして二人の叔父であるジュリアン・ブラックウッド。ほかの家族は、屋敷での食事中、デザートのブラックベリーにかけた砂糖のせいで殺されていた。そう何者かが毒を混入したのだ。事件の当時、メリキャットはお仕置きで部屋に閉じ込められていたため、容疑は食事を用意したコンスタンスへ。証拠不十分で投獄は免れたものの、彼女たちを取り巻く環境はがらりと変化。村人は残忍な大量殺人の容疑者であるコンスタンスを憎悪し、彼女は否応なくも屋敷に閉じ込められることとなり、週に二回、やむなく町へ食料の買い物に行くメリキャットもひどい嫌がらせや罵詈雑言に曝されるのだ。というのが、ざっくりとしたあらすじ。文学的なカテゴリーに言及することすら若干ネタバレになりそうなぐらい、内容に触れずにこの本の面白さを紹介するのは難しいのだけど、まあ一言でいうと嫌な話です。読後に色々な想像が浮かんで来て、「あれ、もしかして、これってああいうことだったの?」的なことがふと頭に過っては、嫌な気分になれるという楽しみ方ができてしまう素晴らしい本。で、ここでまた『マジック・ガール』に戻るのだけど、登場人物の一人がある部屋に入っていくシーンがあって、その部屋でどうしようもなく邪悪で残酷なことが起こったのは分かるのだけど、実際に何が起こったことは完全にカットされていて映像的な説明は全くされないのです。一体、あの部屋で何が起こったのか? 自分の想像力の度合いによって恐ろしさが変わってくる。そして自分の想像力がそもそも恐ろしくなってくる。善良なはずの自分なのに、こんなにも暗くサディスティックなことを想像してしまっているから。暗く果てしのない深淵が存在しているから。『ずっとお城で暮らしてる』で何が起こったのか、どうぞ実際に読んで確かめてみて下さい。物語としても純粋に面白いし、またお菓子と植物と毒が入り混じった世界観も(世界観って言葉、安易で嫌いなんだがまあいいか)とても魅力的です。ちなみに、シャーリイ・ジャクスンは『くじ』という短編小説を書いていて、小さな町で年に一度、くじを引いて当たった人を投石で殺すというチャーミングな話なのですが、それがトラウマ級に嫌な気持ちになるのでご興味がある人はそちらも是非!

Fire and Iceby Robert Frost Some say the world will end in fire,Some say in ice.From what I've tasted of desireI hold with those who favor fire.But if it had to perish twice,I think I know enough of hateTo say that for destruction iceIs also greatAnd would suffice. やんわりと暖かくなってきたタイミングでこの本です。数ページを読んだだけで、本書の読者は、氷に覆われていく終末の世界に閉じ込められてしまいます。氷や、雹や、雪の情景描写ではなく、不穏でサディスティックな主人公の心までが、畳み掛けるように凍てつく寒さを強調していくのですが、その文章がひどく美しい。 この世のものとは思えない白い花が生垣の上に咲き競いはじめた。生け垣が途切れたところで、その奥が垣間見えた。ヘッドライトが瞬時、探照灯のように少女の裸体を浮かび上がらせる。雪の純白を背にした、子供のように華奢なアイボリーホワイトの身体、ガラスの繊維のようにきらめく髪。少女は私のほうを見ていない。(途中省略)下方では、早くも少女のもとに達した氷の最外縁がコンクリートのように足と踝を固定して、彼女を動かなくさせている。私は、その氷が少しずつ少女の脚を這い昇り、膝から腿を覆っていくのを見つめ、少女の口が開かれて白い顔にうがたれた黒い穴となるのを見つめ、かぼそい苦悶の叫びが発せられるのを聞く。哀れみは一切感じない。それどころか、苦悶する少女を見ていることで、説明しようのない歓びを感じている。 簡単にプロットを説明するとしたら、主人公は昔、懇意にしていたにも関わらず、金持ちの男と結婚してしまった銀色の髪を持つアルビノの『少女』に会いに行くのですが、久々の再会を果たした後に、『少女』は突然、夫の元から去ってしまう。どこかの国に船で渡った『少女』が『長官』と呼ばれる権力者の囲われの身となったことを知った主人公は、どうにか彼女を奪還しようとするのだが、命を懸けてまでの努力も空しく、あっさりと一緒に逃げ出すことを拒否されてしまう。しかしながら、主人公は諦めず、ストーカーばりの、というかストーカーそのものの追走劇が繰り広げられる。 普通の小説ならば、どうして『少女』は『長官』と出会ったかや、『少女』はなぜ頑なに主人公を拒否するのかや、そもそもなぜ主人公は『少女』を追いかけるのか、などが当然のこととして説明されるはずだ。しかし『氷』の世界では、時の糸だけで繋がれた脈絡のない出来事たちが起こり、幻想なのか、フラッシュバックなのか、隠喩なのか分からないような文章がまたもや何の説明もなく挿入され、登場人物はそれを必然として受け入れている。これって考えてみると夢と同じ構造。起きてから考えると支離滅裂なのに、夢の中では普通に納得している、みたいな。で、これを書いていて気が付いたのだけど、『氷』というのは限りなく夢に近い文脈で書かれた現実世界の小説だというのがすごくて、それに輪を掛けてすごいのが、読んでいて面白いということ。だって、ほら、人の夢の話を聞くほどつまらないこともないじゃないですか。 特筆すべきは『少女』のキャラ。二十一歳、既婚、にも関わらず彼女のことを『少女』と呼ぶ主人公の不気味さはさておき、文学史上NO. 1 ツンデレガール、とでも呼びたいような独特の魅力を持った登場人物なのです。幼少の頃から精神的に虐待されていたため、いつも怯えていて、何をしてももどかしい、というかほとんどイラつくぐらいの被害者感半端ない行動を取るのですが、主人公に対してはとにかく残酷な言動にでるのです。なんかヴィジュアル的に、日本のアニメのキャラにしてもいいかもしれない。最後こう来るか、どひゃー、というオチもあるので是非読んでください。って、この主人公の一人称、まったく信用できないけどね。『少女』=作者のアンナ・カヴァンが長年苦しめられたコカインのメタファーだというのはよくされている解釈で、そう読み解くのも面白いのだけど、身も凍るような誰かの悪夢的に閉じ込められるのが、読書狂としてはただただ楽しいのです。はい、読みましょう。

アウステルリッツ

レアード・ハントの『優しい鬼』を読んで、最後の方の展開とか、「あー、なんか、これゼーバルトっぽいなあ」と思っていたら、なんと本当にゼーバルトの影響を受けていたと訳者の柴田元幸さんのあとがきに書いてあって、「自分すごい!」と思ったけれど、誰に言ったところで、ふーん、なのでこうやってブログに書いて発散するのです。皆さま、明けましておめでとうございます。20世紀に書かれた偉大な文学作品100を挙げろと言われたら絶対に入れたいのが、この W.G. ゼーバルトの『アウステルリッツ』。と書こうと思ってからふと調べたら、この本が出版されたのは2001年とのこと。ということは21世紀の文学として分類されるのでしょうか? が、この本が20世紀の終わりに書かれて、21世紀の初めに出版されたのはなんだか大きな意味があるような気がしてならない。なぜならこれは『19世紀から20世紀にかけての近代の歴史のさまざまな断片。前へ前へ進んでいく時間の流れの中でくり返されてきた暴力と権力の歴史』を描いた物語だから。そしてその歴史が、性懲りもなく、繰り返されるのではないかと懸念せざるを得ない現在、この本はまさに読まれるべき作品なはずです。物語は、主人公がアントワープ中央駅の待合室、Salle des pas perdus でアウステルリッツという青年と出会うところから始まります。それからヨーロッパの各地で偶然の再会が重なったことで、アウステルリッツは自らの出自を語り出すのです。子供の時分からずっと、私は自分という人間がほんとうは何者か、知らなかったのです、と(アウステルリッツは語った)。今にして思えば、もちろん、このアウステルリッツという名前だけで、そしてこの名前が15歳まで私に伏せられていたという事実だけで、本来ならおのれの出自を探らずにはいられなかったところでした。けれども、私の思考能力にまさる、あるいは思考能力を統べている何物か、脳のどこかで周到に気を配っている何物かが、始終私の秘密をみずからに対して閉ざし続けてきた、そして私がしかるべき推論をみちびきだして相応の調査をはじめるのを、総力をあげて阻んできた、それがなぜだったかもまた、この数年ではっきりしたのです。それが「なぜ」だったかは、是非とも読んで確かめて欲しいのですが、「語ること」の意義に迫ったストーリーが秀逸なのはさておきゼーバルトは文章がとにかく美しい。訳者の鈴木仁子さん曰く「沈鬱で静謐でありながら、おそろしいように美しく端正な文体」だそうで、それがきちんと日本語に移行されているのはただただ見事。鈴木仁子さんに感謝すると共に勝手に幸せを祈りたくなるほどです。もうなんというのだろう、息がつまるほどにメランコリックで、客観的で冷静でありながらも悲しい夢のように心を乱す文章で、他では読んだことがないレベル。そんな類稀な文体でもって淡々と物語は語られていくのですが、その抑えられた迫力たるや! 近現代文学はゼーバルトで一つの極みに達していると私は言いたい。歴史の大きな流れに対しての、個というものの圧倒的な無力さ。でも、個がなければ歴史は存在しえないというパラドックス。作中に挿入された写真は(そう、これは写真入りの本なのです)、虚構と現実の境界をあいまいにするという小道具としてだけではなく、大きなコンテクストから切り離されてしまった瞬間はもはやフィクションにしかなりえないということを示唆しているような気がします。繋ぎ止めるもの、それは記憶しかないのです。

むずかしい年ごろ

「ゴーゴリ―、ブルガーコフの怪奇・幻想の系譜を継ぎながら、現代の恐怖を斬新に描き、ロシアを震撼させた女性作家登場!」というコピーと、美しく不気味なおおたはるかさんの装画に魅かれて購入。我ながら、河出書房新社の担当者の手のひらに転がされてる感半端ない本の選び方……。『むずかしい年ごろ』はアンナ・スタロビネツが26歳の時出版した処女作品集で、この一冊により「ロシアのホラー作家」という地位を築いたそう。が、内容がホラーっぽいかというとそうでもなくて、不条理・幻想小説とSFのハイブリットといった感じ。物語自体は、発想も設定も展開も結末も、どこか既視感があるような、端的に言ってしまうと割とフツーなのだけど、読了後に残る、絶望感とか、救いのなさとか、不穏さとか、生理的に感じる嫌な気持ち、それがなんとも秀逸で、恐らく彼女がホラー作家と呼ばれる所以でもあるのではないでしょうか。表題作の『むずかしい年ごろ』は、蟻に侵された双子の兄の話。よくもまあ、こんなひどいこと考えついたなあ、と少しクスッとしてしまうぐらいの残酷物語で、アリンコが好きになること間違いなしの作品。女王蟻の気高さが、思春期特有の全能感(それゆえのイタさというかダサさ)と相まって、リアリティのかけらもないはずの少年をリアリスティックな存在にしているところに非凡な才能を感じた。ベルナール・ウエルベルの本と並べて置いたら、最高にオシャレなはず、なんて(誰か共感して!)。面白いけど、若干三流ホラー感も否めないなあ、なんて思いながら次の作品『生者たち』を読んで、衝撃を受けた。本当にこちらも多くの作家が書いたようなディストピア的な未来小説で、『革命』という名の単なる逆恨みの末の無差別殺戮を生き延びた者たちが、殺されてしまった愛する人たちをアンドロイドとして甦らせるというあらすじなのだけど、最後のオチを含め決して新しさはない。が、なんだろう、全体を支配するような残酷さと、一切の希望も許さないような絶望、だからこそ際立つ美しい情景。(ああ、でもモスクワの地下鉄とか、カリアティードとか、共産党時代の無機質な建物とか、考えてみると反則に近いような最高なプロップも使ってるんだけどね。)『家族』は、フランシス・ベーコンの作画でデヴィド・リンチがアニメ作ったらこんな作品になりそうな不条理小説。なんて書いていると、この作家はきっと私たちの世代の本読みが大好きなもの、カフカとか、フィリップ・K・ディックとか、ブレード・ランナーとか、村上春樹とかのエッセンスを上手く抽出して、自分の作品に落とし込むことができるんだろうなと。なので、上記の固有名詞に反応する人は、彼女の作品の魅力に到底あがらえない気もしてしまう。ご本人もご自身のことを「リミックス作家」と呼んでいるとのことだけど、現在38歳ということで、きっと作家独自の個性も円熟し始めているはず。もうこの作家の作品は間違っても全部読むので早く翻訳されることを毎日祈ろうと思う。

独白するユニバーサル横メルカトル

死体は週に一回の割合で運び込まれてきた。俺はその都度、奴らを解体し、生で使用する部分とシチューやカレーにする部分とに分けていった。生食するのは肉に残っているミネラルなどを補給するためだという。内臓は特に指示がない限りはディスポーザーに捨てた。オメガの食欲は凄まじく、人間ひとりをほぼ三日で食い尽くした。「通常、大人ひとりで一ヶ月分の食糧になると言われているそうだ」(『Ω の聖餐』)「好きなアイドルはいますか?」という質問に、どうしても「平山夢明」と答えたくなってしまう。もちろん、求められている答えと違うのは分かっているし、変化球的な回答をして関心を惹こうとかあまり思わないタイプなので「いやー、あまりそういうの詳しくなくて」で会話が終わる。大好きな作家とか、尊敬する作家とか、バーで一緒に飲んでみたい作家とか、それぞれたくさんいるけれど、私にとってのアイドルである作家はやはり平山夢明さんだけで、多分実際にお目に掛かったりしたら本気でキャーキャー言ったり、サインをねだってしまいそうなので、共通の知り合いは結構いるようなのだけど敢えて出没されているところには近づかないようにしているのです。平山夢明さんが好きになった理由は(ちなみに平山夢明はご本名だそう。萩尾望都ぐらいびっくり!)もちろん作品がただただ素晴らしいということもあるのだけど、『東京ガベージコレクション』というご自身がメインパーソナリティーを務められたラジオ番組で、レギュラーゲストの京極夏彦さんとの掛け合いというかじゃれ合いが面白く、話が上手いとはこういうことだろうなと思わせるような尾びれも足ひれも付けたうえに金モールや電飾まで巻いてしまったような日々のエピソード(というかまあ言ってしまえばホラ話)が抱腹絶倒で、それを嬉しそうに語っている様子がもうクラクラするぐらいにキュートでノックアウトされてしまったのです。『独白するユニバーサル横メルカトル』は2007年度の「このミステリーがすごい!」通称「このミス」の第一位を、そして2006年度日本推理作家協会賞受賞作でもあります。が、面白いのは、7編の短編はどれもミステリーではなければ推理小説でもないということ。では何かというと、人間の狡さや弱さや痛みなどをテーマにした、グロテスクで救いのない物語です。楽して儲けようとして地獄を見る、みたいなダメ人間や、シリアルキラーや、血も涙もないヤクザなど、そんな登場人物を好んで書く作家ですが、一番恐いのは、レイプでも、殺人でも、拷問のシーンでもなく、普通の人が見せる無関心や冷淡さだったりして、そんなところに平山夢明ならではのひねくれたヒューマニズムが垣間見える気がします。そう、このツンデレ感こそ、平山夢明を偶像化したくなるポイントなのです! もう一回書いてしまうけれど、どの物語もグロくて、とにかく悲惨なことばかり起こります。少年はイジメに遭っているし、母親は宗教に狂っているし、少女は犯されそうになるし、死体は食べられたりします。そんな物語にも関わらず、全編に渡ってどこか暖かい「優しさ」を感じさせるのです。いや、本当に。(ちなみに『他人事』という短編集も素晴らしいのですが、これでもかというぐらいに鬱な話が続き気分が悪くなります。)なぜ幸せな毎日を送っているのに、わざわざ嫌な気持ちになる物語を読まなければならないのか、ホラーや残酷な物語はできるだけ避けたい、という考えの方も多いかと思います。ただ、普通の生活では絶対に味わえない(味わわないものであって欲しい)心のざわつきや痛みは、また違った世界の見方を教えてくれたりするのではないなか、と思ったり。ラジオなどを聞いていると、真面目にやっている自分がくすぐったくなってしまうというか、すぐに自分自身のことを茶化したくなるようなタイプなのかなと思いますが、ただ物凄い才能と世界を見つめる真摯な目を持った、私の中では日本で一番ぐらいの作家なのでもっと作品書いてもらいたいな、と勝手に思っております。ああ、大好き。ちなみに、この作品集に収録された『無垢の祈り』という小説が実写版になり、渋谷UPLINK でただ今公開中だそう。私は観に行きます。